長男出産後3度の流産。5度目の妊娠の記録。
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次の健診は8月2日の予定です。
それまで、少しさかのぼった話を書いていきたいと思います。
長男大地を出産したのが2002年9月。
その後。
2004年12月に自宅で検査薬にて妊娠発覚後、病院へ行く日を見計らっている間に出血し、12月24日流産確定&ソウハ手術を行いました。
2006年9月下旬、生理予定日に出血が始まるも、2~3日経っても通常の生理にならず、もしや・・・と検査薬を使用したところ陽性反応が出て、慌てて病院へ。その後自然流産しましたがhcg値が下がらず、ソウハ手術を行いました。
それから3年妊娠する気配もなく、2009年12月上旬、年齢的にもリミットがどんどん迫っているという焦りがようやく湧いてきて、重い腰を上げ、自宅から車で20分ほどの不妊専門のF病院へ通うことにしました。
長男の出産から7年も経っているため、不妊の検査を1から一通りしてもらいながら、とりあえず(?)のタイミング1回のみで、びっくりすることに、久しぶりの検査薬陽性反応を見ました。
2010年2月のことでした。
胎嚢の確認と心拍の確認の診察後、長男を出産した病院Hへと転院しました。
(ちなみに、それ以前の2度の流産時もその病院でした)
H病院でも心拍を確認し(7週)、母子手帳を受け取ってくることと次回は3週後との指示を受けました。
久しぶりの妊娠で心拍も確認できたことにすっかり安心していた私は、ウキウキと母子手帳を受け取り、予定日の10月を楽しみに、ベビーグッズはどこにしまってあったかな~、名前はどんなのにしようかな~とかなり気の早いことを考えながら3週間を過ごしました。
そして、H病院にて2度目の健診の日。
少し大きくなったであろう赤ちゃんの姿をエコーで見るのを楽しみに、恐ろしく長い待ち時間も我慢しながら診察を待ちました。
朝一で自宅を出てから約4時間後、ようやく呼ばれ、モニターに映った赤ちゃんの姿にほっとしたのも束の間。
一通りエコーの見方の説明をしてくれた先生は、最後にこう言いました。
「ただ・・・一つ問題なのは、心臓が動いてない」
何を言われたのか、はじめは意味が全くわからず、「へ?」とすごくマヌケな声をだしてしまいました。
その後先生がいろいろと今後のことを話していた気はするのですが、はっきりと覚えていません。
赤ちゃんの心臓が動いてないということは、もう何をしても助けてあげることはできないのか?1週間後にソウハ手術、と二言目に言われたということは、もうどうすることもできないのか?
と病院を出るまでその二つだけがぐるぐるしていました。
朝は、育っているはずの赤ちゃんの姿を見るのが楽しみで、ウキウキと家を出てきたのに、まさかこんな結果を聞いて帰ることになるとは全く思っていませんでした。
お腹の大きな妊婦さんで溢れている待合室で、どう見ても泣きながら診察室から出てきた自分が気の毒な目で見られるのもすごく嫌だったし、その後の会計もさらに待たされるし、大地が学校から帰ってくる時間もギリギリに迫っているし、人生で3本の指に入るほどのネガティブな気持ちで病院を出ました。
大地の帰宅に間に合うかという焦りと、こみ上げてくる悲しさで、車を運転しながら大声で号泣しました。
心拍を確認したら、流産の心配は95%(くらいだったかな?)減るそうです。
その数%に入ってしまったことと、3回目の流産ということで、パパにも両家の親たちにも、大地に対しても、申し訳ない気持ちでした。
あのときのショックは、本当にかなりのものでした。
海外出張中だったパパにはなかなか伝えられず、でも手術前には言わなくちゃ、と恐る恐るメールすると、意外なほどに優しい言葉返ってきて、そこでまた泣きました。
手術は3月末。
長くなるので今日はここまで。
それまで、少しさかのぼった話を書いていきたいと思います。
長男大地を出産したのが2002年9月。
その後。
2004年12月に自宅で検査薬にて妊娠発覚後、病院へ行く日を見計らっている間に出血し、12月24日流産確定&ソウハ手術を行いました。
2006年9月下旬、生理予定日に出血が始まるも、2~3日経っても通常の生理にならず、もしや・・・と検査薬を使用したところ陽性反応が出て、慌てて病院へ。その後自然流産しましたがhcg値が下がらず、ソウハ手術を行いました。
それから3年妊娠する気配もなく、2009年12月上旬、年齢的にもリミットがどんどん迫っているという焦りがようやく湧いてきて、重い腰を上げ、自宅から車で20分ほどの不妊専門のF病院へ通うことにしました。
長男の出産から7年も経っているため、不妊の検査を1から一通りしてもらいながら、とりあえず(?)のタイミング1回のみで、びっくりすることに、久しぶりの検査薬陽性反応を見ました。
2010年2月のことでした。
胎嚢の確認と心拍の確認の診察後、長男を出産した病院Hへと転院しました。
(ちなみに、それ以前の2度の流産時もその病院でした)
H病院でも心拍を確認し(7週)、母子手帳を受け取ってくることと次回は3週後との指示を受けました。
久しぶりの妊娠で心拍も確認できたことにすっかり安心していた私は、ウキウキと母子手帳を受け取り、予定日の10月を楽しみに、ベビーグッズはどこにしまってあったかな~、名前はどんなのにしようかな~とかなり気の早いことを考えながら3週間を過ごしました。
そして、H病院にて2度目の健診の日。
少し大きくなったであろう赤ちゃんの姿をエコーで見るのを楽しみに、恐ろしく長い待ち時間も我慢しながら診察を待ちました。
朝一で自宅を出てから約4時間後、ようやく呼ばれ、モニターに映った赤ちゃんの姿にほっとしたのも束の間。
一通りエコーの見方の説明をしてくれた先生は、最後にこう言いました。
「ただ・・・一つ問題なのは、心臓が動いてない」
何を言われたのか、はじめは意味が全くわからず、「へ?」とすごくマヌケな声をだしてしまいました。
その後先生がいろいろと今後のことを話していた気はするのですが、はっきりと覚えていません。
赤ちゃんの心臓が動いてないということは、もう何をしても助けてあげることはできないのか?1週間後にソウハ手術、と二言目に言われたということは、もうどうすることもできないのか?
と病院を出るまでその二つだけがぐるぐるしていました。
朝は、育っているはずの赤ちゃんの姿を見るのが楽しみで、ウキウキと家を出てきたのに、まさかこんな結果を聞いて帰ることになるとは全く思っていませんでした。
お腹の大きな妊婦さんで溢れている待合室で、どう見ても泣きながら診察室から出てきた自分が気の毒な目で見られるのもすごく嫌だったし、その後の会計もさらに待たされるし、大地が学校から帰ってくる時間もギリギリに迫っているし、人生で3本の指に入るほどのネガティブな気持ちで病院を出ました。
大地の帰宅に間に合うかという焦りと、こみ上げてくる悲しさで、車を運転しながら大声で号泣しました。
心拍を確認したら、流産の心配は95%(くらいだったかな?)減るそうです。
その数%に入ってしまったことと、3回目の流産ということで、パパにも両家の親たちにも、大地に対しても、申し訳ない気持ちでした。
あのときのショックは、本当にかなりのものでした。
海外出張中だったパパにはなかなか伝えられず、でも手術前には言わなくちゃ、と恐る恐るメールすると、意外なほどに優しい言葉返ってきて、そこでまた泣きました。
手術は3月末。
長くなるので今日はここまで。
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